読む、ずく、あう

「ずく」のない学生の雑感ブログ

『うしろめたさの人類学』(読む No.001)

 

 

書かなきゃ。

 

 

前回の記事で「アウトプットするぞ~~~~~」とタンカ切っといて1本もかいていないというこのざま。

良くない。非常に良くないぞ。

しかも記事書かないと次の本も迂闊に手が出せないという悪循環。

 

このままでは進歩もへったくれもない。

「どれだけ質が悪くてもいい、書くんだ」と心の中で自分に言い聞かせ、書くことにします。それではどうぞ。今日は読んだ本の感想です。今後これは「読む」シリーズとしてアーカイブしていきます。

 

うしろめたさの人類学

 

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発売後、各方面で話題になっていたこの本。

夏休みの終わりごろ、エデンで将棋を指していたときにイスラム法学者の中田先生から「面白いから読んでみて」といわれ読むことにしました。(その後授業で読む課題がでてそれなりに楽できた)

 

最近どう?うしろめたさ感じてる?

 

この本の主題はタイトルにもあるうしろめたさ。

この記事を読んでいただいてる人の中に、最近うしろめたさを感じた人はいるでしょうか。感じたとしたら、どんなことで?

 

この本の著者の松村圭一郎さんはエチオピアをフィールドとしている文化人類学者ですが、エチオピアでは精神異常者やホームレスが当たり前のように街を跋扈しており、”健常者”はみかけると小銭やガムを手渡すそうです。

 

エチオピアの田舎町を歩くと、よく”おかしな”人に出くわす。精神を病んでいるのか、路上で大声を出したり、ほとんど裸同然で歩き回っていたりする。外国人はしょっちゅう絡まれる。ものを投げられたり、訳のわからないことをずっと話しかけられたり。何をされるかわからないので、正直、怖いと感じることも多い。できれば関わりたくない、と思う。

(中略)

エチオピアの田舎には、精神を病んだ人が入院できる医療施設などない。文字通り、街の中で「ふつう」に生きている。町の人も、そういう人のことを良く分かっていて、時に笑いものにしながらも、ちゃんとかかわりあいながら暮らしている。

(中略)

日本に生きる僕らは、どうか。精神に「異常」をきたした人は、家族や病院、施設に押し付けられ、多くの人が日常生活で関わる必要のない場所にいる。

(中略)

そうして他者と関わらないことで「ふつう」の人間像、「ふつう」の世界の姿が維持される。僕らが、いつもそこにあると信じて疑わない「ふつう」の世界は、じつは傍らにいる他者によって、つねにその足元を揺さぶられている。

 (『うしろめたさの人類学』より引用)

 

「ふつう」を維持するために他者を排除するために、私たちは、何か私たちと違う「異常」な存在を隅っこにおいやる。

 

小学校の時に〈同じ3年5組だったけど、ほとんど教室にいるのを見たことがない〉というような子が一人はいなかったでしょうか。アスペルガーなどの障害を持った子は、クラスメイトが知らないうちに特別学級に移動させられ、別の授業を受けさせられる。

同じ社会(クラス)にいるのに、「異常」な存在と認定されると見えなくなる。

 

この本を読んでいると、そんな「ふつう」なひとによる「ふつう」を維持するシステムがいつの間にか構築させられていることに気づかされます。

 

「うしろめたさ」を携えつつ、気ままに動き出そう

冒頭の「うしろめたさ感じてる?」という質問に対し、パッと答えることのできた人はそんなに多くないんじゃないかと思います。

 

だけど、少なからず世の中には「うしろめたさ」を感じさせるものはたくさんある。

特に最近SNSではそういったマイノリティの主張を知る機会が多いのではないでしょうか。そういった見た時に感じる「うしろめたさ」というショックは、そんなシステムからあなたを解き放つ契機になるのかもしれません。

 

 

……なんだか上手く最後がまとめられないので、毎日新聞の武田砂鉄さんの本著の書評を引用することで終わりにしたいと思います。

 

市場、国家というものが「わたし」の役割を見えなくする。「『わたし』の越境的な行為」によって、凝り固まった制度にスキマをつくるべき、とする。今、所属している場所を維持することばかり考えてしまう私たちは、「うしろめたさ」を携えつつ、気ままに動き出すべきなのだ。

毎日新聞『SUNDAY LIBRARY
武田 砂鉄・評『うしろめたさの人類学』松村圭一郎・著』)